photo by NORIKO TIDBALL

 
 
 

「root -道- 」

詩を感じ

詩を見つめ

詩を書き

詩を叫び

詩を憎み

詩を愛し

詩を忘れ

詩を生きる

 

振り返れば道があり

繰り返せば道はつづく

 

いつかわたしが死んだあと

生まれくるきみと

交わす道

 

(初出…2015年、雑誌「シェルスクリプトマガジン」2015年11月号)

 
 

“孤高の詩人”と謳われ、現代詩の巨匠 谷川俊太郎氏とも競演イベントを主催する桑原滝弥さんがバンクーバーに降り立ったのは2016年の秋のこと。

カナダと日本の詩人を繋ぐ「Japanese Poets North of the 49th」主催のイベントでは、10日間にわたって朗読やワークショップが開催された。

パウエル通り近くのカフェで。アートギャラリーで。かつて詩人が暮らした家のリビングルームで。滝弥さんの声が、響く。

聴く者のいのちに問答無用でぶつかってくる、たましいむき出しのパフォーマンス。

爆笑と号泣が一気に襲ってくるような、どうしようもない感情が吹き出すのを感じながらも、「永遠に聴いていたい」、そう思ったのは、言葉の意味をはるかに超えて、彼が全身全霊で発する、“いのち”そのものの光と熱の濃度を感じたから。

呪いのような、祈りのような、彼の“詩”はどこから生まれたのか。ロングインタビュー前編では、滝弥さんの詩が生まれた“原点”に迫ります。

2004年、舞台「ハニュウの宿」photo by KEI OKANO

 

_中学卒業後すぐに役者の世界へ入られ、それ以降、ずっとパフォーマンス生活を送られている滝弥さん。
演劇、音楽、そして詩。からだ・こころ・魂を使って常に表現してこられたんですね。
「表現者としての片鱗」は小さな頃からあったのでしょうか?

 

母子家庭で一人っ子で育ったので、一人で遊ぶ時間が多かったんです。
思えばそういう時間が、今自分がやってることに影響をかなり与えてる。

 

_一人遊びではどんなことを?

 

かなり妄想っ子でしたね。新聞のTV欄に、架空の「たきやTV」を朝~真夜中まで番組構成を考えてた。「野球嫌いだけど野球中継いれないとな~」とか、ニーズを考えて作ったり、テープに架空のラジオ番組、自分でハガキを書いて自分で読んだり、漫画を描いたり。

ふだん一人だったもんだから、寂しいし、かまってほしい。だから時々、親戚が家に来たりすると、静かな家が賑わうんだけど、それがすごくうれしくて。

「あ、そろそろ帰るかな~」って時なんか、もう胸が張り裂けるほど寂しくて。
そこでとっておきのギャグをやると、またワッっと盛り上がって、30分くらいいてくれる。でも、あんまり面白いことができないと、帰られちゃう。

ひとりでいると寂しい。でも、おもしろいことやると、いてくれる。そんな必要性にかられてやってましたね。

 

_“寂しさ”がステージの原点ということですか?

 

うちは4歳で両親が離婚して、母方に引き取られた。離婚したってことを、母は黙ってたんです。まだ理解するには早いからって。
学校の先生にも「父は遠くで仕事してるってことにしておいてください」ってね。

父の日なんて、父がいるていで、似顔絵描いたり。
でも、4歳で、離婚って言葉はわかんないけど、ちゃんと理解してる。「お父さんいないのにな」って思いながらも、笑顔で、「うちのおとーさんは~」っていうようなことが続いて。

さすがに“フリ”をするのもしんどくなって、小学2年くらいのとき、「おとうさんって、もういないよね?」って母に言いました。

子供ながらに、気を遣ってましたね。親にも、周りにも同情されたくない。
そのあたりが、「演じる」という原点かもしれない。子供のままで、きゃっきゃと言ってられなくなった。

 

小学生の頃、河原にて。

 

_お母さんや、誰かを傷つけないために、自分の心とは違うことを演じていたということでしょうか。

 

そこで「おとうさんがいない~」と泣いても始まらないって、子供心にわかってたから。
いろんなものが、変わらざるをえない。親が離婚したのはわかりやすい例だけど、それ以前に、居心地の悪さっていうものを、子供の頃から感じていた。

「生まれてきてよかったのかな?」っていう思いが、いつもどこかにあった。

かくれんぼをしていた時、すっごい隠れすぎちゃって、誰にも見つけてもらえなかったことがあって。みんな帰っちゃって、忘れられて、ぼ~っと一人暗闇の中から、遠くに夕焼けが見えて。ふと、「あ、もう死のうかな~」って。何が悲しいってわけでもないんだけど。

でも、その「死のうかな」は、わりと満たされた感じなんです。
「あ~もうやだ、生きてけない」ではなく、「あ~、死のっかな~」って。
小学2年くらいの頃に、そんな感情を感じていました。

自分の思いとか、感情とか、「これはこうなんだ」ってはっきり言えないものが、自分の中にあって。

夕日を見て「死のっかな」って幸せな気持ちになるってのは、ふつうに考えると、おかしな感じじゃないですか。でも、「この感じ、なんか大事な気がする」っていう気づきが、詩への第一歩だった気がする。

「人間だけじゃないな、この世界は」ってのが、わりと早い段階でわかってた。育った環境が自然に囲まれてたからかな。それに早く気付けたのは、ラッキーだったなって。

 

_寂しかったからこそ、そのことに気づきやすかったのかもしれませんね。満たされていたら、気付けなかったことかもしれない。

 

そうですね。でも、人間の存在って、寂しいというよりは、どこか哀しい存在だって思っていて。

母がわりと文学好きで、小さい頃からかなりいろんな本を与えられていたんですよ。
もう、なんだかどう受け止めていいかわからないような、当時は意味不明なものがいっぱいあって。

けど、わからないなりに、「人間って、なんだかわかんないけど、哀しくて不自然でいびつで切ない存在だな」「でも、そういうとこがいいな」って感じていました。

 

_まさに、滝弥さんの詩のテーマでもありますよね。

 

そうですね。その頃から、テーマはあんまり変わってない。

 

_中学卒業後、役者としての活動を始められて。「ふつうはこうだよね」っていうレールを離れて、15歳で自分の道を決心された。
それは、衝動だったんでしょうか。それとも、表現者としての決意でしょうか。

 

そんな崇高な目的ではなく、ただ単純に、就職か進学かを選べって時に、学校も好きじゃなかったし、ぜんぜん勉強してないし、「じゃ、行かなくてい~じゃん」って。

母にお金を出してもらうのも申し訳ないし、なんでもいいから早く働きたかった。

小学3年の頃から就職情報誌を集めて一人でニヤニヤしながら見てたんですよ。
「お、寿司屋なら16歳から働ける!」とか言って。とにかく、人の世話にならずに、勝手気ままに生きたかった。

 

1986年、役者として初舞台に立つ。

 

_どんな風に役者としての活動をスタートさせたんですか?

 

最初は、名古屋の事務所で。中3の時、すでに事務所に入って役者の仕事をしてたんですよ。
で、19歳くらいで東京に出てきたんだけど、名古屋の頃も、全国いろんなとこに派遣されてやってましたね。

 

_初めての、役者としてのお仕事。どんな思いでされていたのでしょうか?

 

その時はただただ必死でしたね。とにかく舞台に立って、教えられたことを間違えないようにやらないと。当時は死ぬほど怖かった。

だけど緊張しながらも、なんか懐かしい感じもあって。「あ、ここなら居心地いい、落ち着くな」と、ステージの上では思えた。

今でもそう。どこかで生きづらさをずっと引きずってたけど、ステージの上でお客さんに観てもらっていたら、「ああ、こんな俺でもいていいんだ」「誰かの役に立ってるんだ」って。

なんか、すごく傲慢で自分に自信がある部分と、「いやいやいや、ギリギリ存在させてもらってますから」っていう卑屈な部分と、両方あるんですよね。

 

1992年、舞台で老人役を披露。

 

_今でも詩人として、そういう両極端な気持ちが存在するんですか?

 

それは、ありますね。だって絶対に、新しい作品を創って見せなきゃでしょ。いつもどきどきする。「どうしよう!」って。「どんなに今までおもしろいもの創ってても、新作でおもしろくなきゃ、もうだめじゃん」っていう、恐怖。

だから、つけあがっている暇がない。新しいものができれば2.3日は気分がいいけど、すぐに「やばい、次どうしよう~」って、常に崖っぷちですよ。

 

_同時に、パンクバンドのボーカルとしてもステージに立ってらっしゃいましたが、役者とはまた違った喜びがあったのでしょうか?

 

役者は台本があって、立ち位置、照明、衣装も決まってる。ひとつの絵の中に自分が入って、絵の一部を自分が担う。

バンドは、芝居より自由ですね。パンクバンドでのステージングの中で、アドリブ力も鍛えられました。客がステージに上がったり、客同士が喧嘩したり、ビール瓶が飛んできたり。もう何がおきるかわからない。

そういう意味じゃ、役者は、同じことを何度も新鮮にできるという再現力。
バンドは、瞬間に感じたことを表現する即興力。どちらにも違った魅力がありました。

 

1990年、バンドのステージで。

 

_バンド時代から詩を書くようになったんですか?

 

実は詩っぽいものは、小学生の頃から書いてたんです。
けど、バンドでは連続的に書いてましたね。曲によっては日本語が乗らないものもある。最初はギタリストが曲を持ってきて、とりあえずイメージをデッサンのように書いてた。

だんだんのってくると、物語でもないし、言葉だけで独立してる世界が生まれて、その時、「あ、これが詩なのかな」って。

おもしろいと思いました。これだけに特化してやっていきたいと。

 

次回は桑原滝弥さんの「ゼロ→イチポイント」に迫ります!

 
 
 

Profile 桑原滝弥 くわはらたきや

詩人。1971年、三重生まれ。
演劇・音楽・パフォーマンス活動を経て、1994年、詩作を開始。 処女作『えりなのプロフィール』は、新潮文庫『あなたにあいたくて生まれてきた詩 / 宗左近・選』に収録。 以降、「あらゆる時空を” 詩 “つづける」をモットーに、紙誌、舞台、映像等、様々な媒体で作品を発表。詩人・谷川俊太郎との競演イベント『俊読』(全国開催)や、言の葉Tシャツの製作などの企画も多数手掛ける。海外での活動や、妻の講談師・神田京子との詩芸ライヴ、他ジャンルとのコラボレーションも積極的に展開。東日本大震災被災地の歌『たしかなる風 ~ふるさと久之浜~』を作詞(作曲・谷川賢作)。著書に詩集『花火焼』(にこにこ出版)、写真詩集『メオトパンドラ』(写真家・キッチンミノル共著/FOIL)ほか。
 

「桑原滝弥・情報ブログ」
http://shijinrui.blogspot.jp/

About The Author

Star☆tS 編集長 - 言葉の魔術師

兵庫県明石市生まれ。言葉のお仕事師。夢見がちなこども時代、激音と妄想まみれな思春期、販売・事務職など迷走OL時代を経て、大失恋をきっかけに晴れてコピーライターに。2007年、サンタモニカへ移住。2010年、バンクーバーへ移住。ブランディング、コピーライティング、インタビュー記事執筆などの他、絵本、小説、エッセイなど、アーティストとコラボした作品も創作中。最近ぐっときた言葉は「愛は光の速度の二乗」。 カナダ留学エージェンシー カウンセラー

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